「己こそ 己の寄る辺(おのれこそ おのれのよるべ)」
少林寺拳法の「聖句」という教えの冒頭部分です。
先日のイベントでセミナーを一つ持たせてもらい、その中で
「定年で会社を離れたら、肩書きも名刺もなくなります」
っていうことを話させていただいたんですが、
じゃあ何が残るの?ていうと結局は
「自分」
なんですね。そんなことを考えていたら、
「己こそ己の寄る辺」
という言葉をふと思い出しました。
「己こそ己の寄る辺」
大学生時代、少林寺拳法部で練習のたびに唱えていたこの言葉、
もともとは釈迦の説法の一節だそうです。
他にも暗記させられた教えはあるのですが、この「聖句」の冒頭部分だけは強く心に刻まれています。
己れこそ、己れの寄るべ、
己れを措きて誰に寄るべぞ、
良く整えし己れこそ、
まこと得がたき寄るべなり自ら悪をなさば自ら汚れ、
自ら悪をなさざれば自らが浄し、
浄きも浄からざるも自らのことなり、
他者に依りて浄むることを得ず
まずは自分を心身ともに整えること。
安易に人を頼らないこと。
全て自分の責任。
注)私の解釈です。
おぉ、そうかもな。そうだよな。
強くなりたいな、オレ。
元々人と争うのは嫌いで厳しい練習もしんどくて毎日「やめたい…」と思っていた少林寺拳法でしたが、まだ若くて素直だった私は「ここでやめたら何も残らん」と歯を食いしばって最後までやりました。
3回生の時には副将を務め、北陸代表の1人として武道館の全国大会にも行きました。
最後は学生では少なかった、3段の赤卍。自分にしては頑張ったんじゃないかな(笑)
たぶん、「己の寄るべ」となる「己」に少しでも近づきたくて。
つらい思い出も多い少林寺拳法ですが、こういった人間形成的な教えも多く、町の道場(道院)で小学校低学年ぐらいの子供たちが精いっぱい大きな声で、意味も分からないであろうこの「聖句」を唱和している光景は、微笑ましくもありました。
他に、開祖である宋道臣先生の映画で言われていたと思うのですが、
正義無き力は暴力なり
力無き正義は無力なり
なんてのも胸に沁みついています。
真理を突いた、いい言葉ですね。(「力は正義だ」とは全く違うことにご注意を)
あの頃のように体は動かないけれど、言葉はちゃんと残ってる。
体の方も、体捌きぐらいは覚えてる。といいなぁ。(^^;
組織や肩書がないと不安に感じたら、危険信号
会社では上下関係があって、発言権や言葉遣いはおのずと決まっています。
人事が固定化されている旧来の純日本的な会社ではもちろんそうでしょうし、そうでなくても、決裁権人事権がある人の方が上からものを言うことができます。
後だしジャンケンなんて禁じ手も使おうと思えば使えちゃう。会議も挨拶も、部下がお膳立てしてくれます。
つまり上にいた方が、コミュニケーション上はラク。
下にいると何かと大変ですが、コミュニケーションの取り方という面では役割がはっきりしているとも言えます。
つまり、「自分+肩書き」のセットで相手とのコミュニケーションが成立します。
「肩書きこそ 己の寄る辺」
「会社こそ 己の寄る辺」
だったりします。
しかし定年退職して会社を離れると、肩書きも、名刺もありません。
「肩書き」「会社」に寄りかかることはできません。
上下関係もありません。
家庭でも、地域でも、趣味の場でも、いつまでも昔の自慢話を繰り返していたら、煙たがられること間違いなし。
前の功績に関係なく、その場にふさわしい「貢献」をした人が評価されるのは、会社と同じです。
ただ「貢献」と言っても、わかりやすく何かの成果をあげるというのではなく、「ただその場を居心地よくすること」「まずは邪魔にならないこと」だったりします。
「元○○のオレ」はひとまず忘れて、「普通の人」から始めましょう。
素の「己=自分」が大事。
会社組織でのコミュニケーションが染みついていませんか
仕事以外で初対面の人と会話をしているとき、こんなことはありませんか?
- 相手の会社、肩書きが気になる
- 会社では何をやっていたのか(やっているのか)聞かずにいられない
- 相手が自分より上か下かを無意識に判断している
- 相手より上に立とうとする
- 上か下かの判断で口調を変えている
- つい仕事の話になってしまう
- 気が付くと自分ばかり話している
- 雑談をしていても、問題解決の議論になりがち
- 結論がない会話は気持ち悪い
- 勝ち負けが気になる
ひとつでも当てはまる人は、「会社組織でのコミュニケーション手法」が染みついている可能性があります。
相手からしたら、仕事でもないのに毎回何らかの成果や結論を出さないといけないとしたら。会うのがしんどいですよね。
「会議」ではなく、雑談ができる人になりましょう。
どうでもいい会話をして、
なんだか楽しかったなぁ~、
ぐらいのコミュニケーションができるといいですね。
そこから、深いおつきあいが始まるかも。
裸の王様にならないために
リタイアしたら、会社組織の後ろ盾はありません。
あるのは、あなた(己)そのもの。
上司風を吹かせて昔の部下を家に呼んでも、来てくれるのは最初のうちだけ。
部下が従っていたのはあなたではなく、あなたが持っていた人事権や決裁権ですから。
※そんなことはない本当に慕われていたあなただとしたら、きっと何の心配もない素晴らしい人なのでしょう。すみません、こんなコラムからはすぐに離脱してください^^
会社軸で自分を語りがちな方は、会社での地位や肩書や実績を捨てた後に残る「自分」を、よく整えておくべきです。
ポイント
- 「自分」と人の共通点を探せるか
- 「自分」から人の輪に溶け込めるか
- 「自分」が人を惹きつけるものは何か
準備は早い方がいい、意識するのは今からでもできます。
昔自慢をしたくなる気持ちをぐっとおさえて、
会社に寄らず、己を寄るべとする訓練、意識改革を・・・
大丈夫、会社組織で頑張ってこれたあなたなら、新しい場はもっと楽しくできるはず!
「己こそ、己の寄る辺」